平民苗字必称義務令が出され、全国民に名字が与えられた明治8(1875)年、内務省より3本の苗木が青森県庁に配布されました。これが青森りんごのはじまりです。
今からは想像することすら出来ないほどの先人たちの努力、病害虫との闘いを経て、明治20(1887)年頃から青森りんごが販売されるようにました。その頃から出荷のために木箱が使われ始めたと言われていますが、当時は市場や問屋での木箱の買い付けが難しく、石油木箱やそうめん箱、籠なども使われていたそうです。「なんとしても出荷してやろう!」という強い意気込みを感じます。
販路開拓 第一人者「敬業社の佐藤勝三郎」(藤崎) -----
箱の方は杉の五分板で作ったもので、側も底も棲(つま)もみな一枚板という立派なものです。もちろん今の箱のように行きっきりになるのではなく、戻り箱といって返される箱です。空箱はムダだということで彼は、帰りには雑貨品を仕入れたといいます。明治25年(1892)から東京へ流通したようで、荷車で青森へ運び、青森から船で品川沖に行き、そこでハシケに積みかえて揚陸、それから神田へ荷車で運んだ。
※ハシケ《「はしけぶね」の略》河川・港湾などで大型船と陸との間を往復して貨物や乗客を運ぶ小舟。船幅が広く、平底。はしぶね。